2020/05/21

sense of melting on the quiet(仲野哲史)

 よじれる音像に淡い過去の映像の断片が重なっていく。リフレインの中から零れ落ちそうになる感覚の話をしよう。まだ名前を知らない感覚の話です。

 「淡い過去の映像」は中央公園の側の庭に咲くパンジーとか、小田急で下って藤沢を過ぎたあたりの車窓から見える景色とか、烏丸で不意に激しさを増した雨とか(あの日買った折り畳み傘は今も使っています)、八王子に向かう中央線で防音壁も高いビルもなくなって住宅の屋根が広がっている様子とか、水戸街道の手前で振り返ってみる饅頭屋とその背後に覗くスカイツリーとか、梅雨を過ぎ、花は落ちてなお濃い緑の紫陽花の葉とか、そういうものです。

 「淡い過去の映像」とはどういうことかと言うと、一つには、その映像には明瞭なものもあるけれど、当然ながら細部はほとんどは明らかでないということです。あのとき烏丸で雨を逃げて一緒に傘を買ったのは、小野寺君だったか石井君だったか横田君だったか岡村君だったか(たぶん小野寺君と買って、そのあと石井君と横田君と合流した)。
 だから脳裏に浮かぶそれを「映像」というのは、本当は適切ではない。(これは全然関係ないかもしれないし、みんなそんなものかもしれないけれど、私の記憶は雑だ。映画とか本とか、すごくおもしろかったと思っても、話の内容とか結末は、すぐにほとんど忘れる。見終わった後の感覚だけが残る。『アクト・オブ・キリング』の後の吐き気。『ミツバチのささやき』の後の誰にも見つからずに帰りたいという気持ち。『パリ、テキサス』なんか3回くらい劇場で観たけど、3人が最後どうなったか、もう覚えていない。)

 二つには、明らかに自分の体験したことであるという強い自覚を伴う記憶と、そうでないものと、自分の体験ではないかもしれないこととが入り混じっているということです。中央線で鈍く光る瓦屋根の群れむれを見たとき、(甍…、昼下がりの中央線…、eastern youth)と思った。それで、eastern youthは本当のことを歌っているんだなと妙に納得した。映像はあの日中央線の車窓から見たものかもしれないし、もっと前にeastern youthを聴いて思い描いていたものかもしれない。たぶん、ぼんやりと溶け合っている。緑の紫陽花の葉は、現実に見たものではなくて『PAIN part Ⅱ』のMVで周平さんの顔を隠していた葉かもしれない(あそこに紫陽花が映っていたのかもまた定かではない)。

 「淡い」というのは対比的な言葉だから、すべてが淡いというわけではなくて、その映像の明瞭さや、映像と自分との距離に濃淡があるということに他ならない。そして、自分の体験ではないかもしれないことが入り混じると、ユウマ君の映像と自分の頭の中の映像が等しい価値で重なりあっていく。

 リフレインの中から零れ落ちそうになるのは、郷愁や過去への慕情の奥にちらちらと垣間見られるもので、現実の過去が揺らぐ感覚です。言葉にすると大げさなようにも聞こえるけれど、そうではなくてそもそも現実の過去は全然確たるものではなくて、いとも簡単に現実と非現実は混じり合う。
 現実は、過去にもありうるか。過去は現実として存在したのか。記憶は過去を担保しないのではないか。そんなことに、はっきりと思い至るわけではない。はっきりと思うわけではないけれど、ぼんやりとした不安定さが、よじれる音像に奇妙に混じり合っていく。混じり合って、『Empty』の初めの2音で、私のからだは床に溶け落ち、1:40くらいから立ち上がってくるフィードバック音と同じ速さで空中に立ち昇り、やがて霧散する。


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仲野哲史